弁護士 小田 康夫
2022.07.06

「ファクト・エビデンス主義」の落とし穴~考えるとはどういうことか?その2~

以前のコラムで、不遜にも、高校生向けに「考えるとはどういうことか」を書きました。
http://www.ak-lawfirm.com/column/1231
その後、コロナ禍による外出自粛で時間もあったこともあり、「考えることについて」私なりに(また)考えてきました。以前のコラムでは多くの誤りがあったように感じ、「考えるという概念について」の考えについて修正版を書こうと思います。

★結論=考えることは問い続けること

考えることは、問いを続けることです。
こんなことを書くと、「なんだ、当たり前の話じゃないか!?」と思われる方も多いかもしれません。しかし、「問い続けること」って、結構、奥が深く、難しくないですか?

★「問い続け」ないとどうなるか?

ちょっと前に「思考停止」という言葉が流行りましたが、

思考停止
=考えなくなること
=問い続ける労力を惜しんで、(すぐ)結論を出してしまう状態
という意味で整理できるように思います。
つまり、思考停止とは、短期的なスパンで、すぐ結論を出してしまい、それで満足してしまって、自分の中でさらに深く考える営みをやめてしまうこと、です。

★「問い」とは何か?~適切でない「問い」の例~

私なんかは、子ども(未成年)のころ、学校で壁を壊したり、窓ガラスを割ったり、バイク通学をしたりして先生に呼び出された際に(詳細は割愛しますが子どもなりの事情がありました。)
「よく考えろ!」
「本当に反省しているのか?」
「何をしたかわかっているのか!?」

なんて先生に言われて、怒られましたが、
「よく考えろ!」=馬鹿なことをやるな。
「本当に反省しているのか?」=反省している態度を示せ。
「何をしたかわかっているのか!?」=もうこんなバカなことをやるな。

このような問いは、今回のテーマとしている「問い」ではなく、
怒り方のバリエーションにすぎません。

★問いは自問自答が基本?
ところで(適切な「問い」とは何か?を分析するのはいったん離れて)、問い方、つまり、問いのやり方、言い換えれば、「問うって誰に問えばいいの?」という視点を提供すると、それは、自問自答っていう方法になります。だって、人に聞けてすぐに答えがでるような疑問なら問う必要性は乏しいですし、問う相手がそもそも周りにいないこともあるでしょう。下手に、「幸せって何だと思う?」なんて友達に聞いたらもんなら、「気持ちわるいやつ!」とか「キモいやついた!」とか言われてしまうかもしれません。やっぱり自問自答が無難です。

ただ、自問自答って、答えが出ないことも多い。
「高卒で大学に行こうか、それとも、就職をしようか?」
「(友達と喧嘩なってしまって)自分の話し方が間違っていたのだろうか?」
「幸せって何だろう?愛って何だろう?」

どうしたらいいんでしょう?
→それは、こう割り切るしかありません。

★「結論」はその時点での仮説にすぎないと割り切ること?

「結論はその時点での仮説にすぎない」と割り切りましょう。
言い換えれば、「結論という概念はその時点の仮説にすぎない」と整理できるかもしれません。

問いを立て、仮説的な結論に至り、それをまた疑い、また問いを繰り返す。
ここで、大事なことは、
◎悪い結論に至ったとしても(自分で自分を)批判しない。
◎どんな結論も「途中回答」であると考え、答えを急がず、問いを立て続ける。
◎結論よりも、考えていくプロセスが重要であると認識する。

★「結論」を急ぐと大変なことになります?

日頃、テレビでニュースを見ていると、
コメンテーターが「結論」的なことを言いますよね。
●「この事件の原因は、●●だ!」
●「この問題は、●●に、責任がある!」
●「この人は、●●だから、ダメだ!」
本当にそうなのか?と疑っていく必要があります。

油断すると(私自身もそうなので、あまり大きな声では言えませんが)、
●つい、犯人・悪者探しをしてしまい
●そして、何かそれっぽい出来事を「原因だと特定した」と安易に考えしまい
●下手すると、「何か犯人っぽい人の特定」に加担して、「その特定結果」に溜飲を下げてしまいます。

これは言い換えると、
●安易に「真の犯人・悪者がいるという結論」を出している点に危うさがありますし(真の犯人や決定的な出来事なんてそもそも存在しないかもしれません。)、
●「一般的に正義とされていること」「正しいとされていること」が「わかった」時点で、思考停止=問いをやめてしまい、
●さらに悪い事に、(自分が正しいと確信しているがゆえに)対立する意見や批判を無視してしまいます。

犯人捜し・悪者探しをした結果
→「こいつ(この団体)が悪いから、こうなった!」

「正義はこっち」
→「だから、あいつらは悪で、頭がおかしい!」

「(メディアでは実は報道されないが)本当の内部事情は、こうなっている」
→「だから、この内部事情と違う話は、嘘!」

などの、極端な意見に引っ張られてしまいます。
思考を停止すると、大変な副作用がありますよ、というお話。

こういう極端な意見は、時に正義感と結びつきます。

そして、時に、正義感は暴走しますから、自分の正義感を揺さぶられる事態になったら、自分の考えが気づかぬうちにバイアス方向に引っ張られていないか、特に気を付ける必要があります。

こんな話をしても、「いやいや私は、(あんたと違って)結構、ちゃんと考えているよ!」という反論もあるかもしれません。

でも、物騒なニュースがあると、メディアでもSNSでも(はたまた学校でも)、「真の責任、真の原因、真の問題」を探して、その責任者(らしき人物や団体)をみんなでたたいて、排除しようとすることが往々にして行われています。

こいつ(この団体)が悪い
↑↓
いやこいつ(この団体)は悪くない

でも法的な責任を問えるかどうかはさておき、
「ある事件」が起こった時、その責任や原因・問題は、常に複層的複合的ですから、「唯一の悪者」や「唯一の責任者」「唯一の問題」というのは、存在しない場合がむしろ普通でしょう。まず問題の立て方として、悪いか悪くないかの二項対立で、物事を分類していること自体が本当に正しいのか、そこに疑いの目を向け、「別の原因がないか」という問いを立てる必要があります。

★ここでもう一度念押し(脅し)したいこと?

上記の●●●を、もう一度、言い換えると、
●ついやっちゃう、【「真の犯人・悪者・原因」探し】
●そして、真の犯人・悪者・原因を特定できたら満足しちゃう【満足型の思考停止】
●下手すると、「真の原因を特定してやった」、それを知らないやつらは「バカ」「敵」「悪」と判断してしまう【正義感を伴う「こっちが正義」「あっちが悪」の対立思考】

「『真』犯人捜し」という発想は、結構危うい性質を含んでいます。
というのも、犯人捜しをしても、実は犯人(原因・問題)が存在しないという場合もあるからです。そうであるにもかかわらず、「犯人がこいつだ、こいつが真の悪者だ!」と認定してしまったら、そこで安心してしまい、考えるのをやめてしまうことが往々に起こりうるからです。

また、一時期、「それってあなたの意見ですよね?」という言い方や「エビデンス(証拠)は?」という言い方が流行りましたが、「意見」と「(証拠のある)事実」ってそんな簡単に分断できません。もう少しはっきり言うと、「事実」重視の視点(ファクト主義、ファクト・エビデンス主義)も、いまや、けっこう危うくなっています。
というのも、「一定の証拠のある事実」が到達した時点で、満足して、思考を停止してしまうことにつながるからです。満足型の思考停止。もう少し言葉を足すと、事実を拾い集めていく際にどうしても自分のバイアスを排除できず、自分の主義主張に合致する事実を(自分の主義主張に合致しない事実を比べて)より多く集めてしまいがちで、それを自分で気が付かない。人間は感情の動物ですから、対立する事実(主義・主張)に関する証拠集めは気乗りがしないものです。ここに正義感の暴走が加わると、気が付かぬうちに、差別主義や排外主義、陰謀論などに組みしてしまいます。

SNSやテレビのコメンテーターの話を鵜呑みにして、結論を(急いで)出してしまう人は意外に多いのではないでしょうか。こんなことは、一般に「頭がいい」とされている人だって、同じです。他を排除していくのは、人間の生物学的な本能に関わる部分でしょうから、バイアスをすべて排除できる人なんて、この世にはいないと考えるほうが無難です。気が付かぬうちに、自分が陰謀論に陥っていないかを、定期的に謙虚にチェックする仕組みを取り入れ、また、社会において陰謀論が増えていかないよう、社会の言論の状況を相対的に見ていくことは、これからの社会で特に重要になってくるように思います。

★適切に「問う=考える」にはどんな方法があるか?

言い換えれば、問いを繋ぎ、考えることをやめないために、どんな方策があるか。
私なりの方針としては、
◎小さいがいい
◎ゆっくりがいい
◎やや不合理がいい

◎小さいがいい
問いは身近なものから考えるのがベターです。
だって、自分の周りにはより多くの情報、つまり判断材料が転がっていることが多いからです。いきなり、「資本主義がいいか、共産主義がいいか」とか、「地球環境を良くするにはどうしたらよいか」とか、「宇宙の端には何があるか」とか考え出しても、一定の結論に至ることにも何十年ものスパンがかかる長大な問いで、問いを立てる手掛かりとなる情報も、手元で見て感じて手で触れるようなものはなく、簡単に手に入るのはネット情報くらいで、ネット空間の情報の質は担保されておらず、玉石混交で信用ならないものも多く含まれているからです。

大きいことは自分(一人)では解決困難なことが多い。
まずは小さな問いから始めてみる。例えば、
「彼氏彼女をどうしたら作ることができるか」
「モテるにはどうしたらよいか」
「試験でいい点を取るにはどうしたらよいか」
「部活で活躍するためにはどうしたらよいか」
身近にあることを出発点にして、問いを立ててみる。

◎ゆっくりがいい
何ごともそうですが、急ぐと続きません。
息切れしてしまう。
あせって、ゴールをしたと思って、思考停止してしまう。
私自身、何年ものスパンで考えていても、一定の結論にすら至っていない問いが無数にあります。

◎やや不合理がいい
デジタル社会では、早くて効率的、合理的が喜ばれるようです。
しかし、効率的、合理的は単線的です。
論理が一つで、軸は弱く、もろくて、簡単に切れてしまいます。
やや不合理というのは、重複的、複合的な構造こそが大事であるというイメージ。
時間がかかって良いので、考えた結果=仮説を支える論理は複数持つようにすると堅牢で、反対の立場から指摘があっても、簡単に崩れないものとなります。

★「考えること=問い続けること」の副産物?

○その思考過程=プロセスを踏むことで論理的な思考ができるようになります
○論理的な思考ができれば、自分の考えを他人に伝えることも可能になります
○自分の考えを他人が理解できる言葉で伝えることができれば、将来、自分のやりたいことができるようになります

私たちの資本主義の世界に生きていて、
その世界では、希少性のあるものに、価値が付加され、稼げる仕組みです。
結論というのは、「○○は●●だ!」という一言で言えるものですから、だいたい似たり寄ったりなところに収束し、価値は低い。しかし、思考過程はオンリーワンで、唯一無二です。思考過程・プロセスは長大であるがゆえに、希少で、価値が高い。(そうでなければ、小説なんていうジャンルが成立するはずはありません。「メロスは走ったけど間に合わなかった」という結論だけでは、まったく感動がありません。)PCやAIなどが効率や合理性を代替する社会となっても、自分の考えを持ち、それを伝えられる技術を持つことは、人間の優位性となることは間違いありません。

大きな問いを立てず、結論をすぐに出さず、合理性効率性を求めず、
自分にとって面白いなーと思ったことを繰り返し繰り返し考え、
一定の仮説を立て、行動し、また仮説を立て、行動する。

★最後にもう一つだけ。やっぱり失敗が大事?
私の経験からすると、「司法試験に不合格」という失敗を経て、
ようやく正しい問いを立てることができました。
→「なぜ私は司法試験に落ちたのか?」
→「落ちた原因は、○●という科目の点数が悪かったから」
→「○●という科目の点数が悪かった原因はどこにあったのか?」
→「○●という科目も含めて勉強の仕方に問題があったから」
→「ではどのような問題があったか?」
→「試験勉強のゴールとなる本番試験の問題へのアプローチの仕方に甘えがあった」
→「その甘えとはどんなところか?」
・・・

「自分は大丈夫!」
「自分は正義!」
「自分は正しい!」
と思っていると、断崖絶壁に立っていて、命の危険があるにもかかわらず、案外、気が付かないものです。

失敗は「考える=問う」ための出発点だと考えると、問うことで、考え、自分の弱点を知り、謙虚になって、また一つ階段を登ることができる。そんなことを考えていくと、「考える=問う」ためには、何か目標に立て、「挑戦」をして、真剣に「努力」し、「失敗の経験」を経ることが大事ということになりそうです。コロナ禍の外出自粛によって、閉塞感が社会全体を覆い、無力感にさいなまれて、無気力に至り、何にも挑戦をしないと、考えることもできなくなってしまうのかもしれません。挑戦というのは具体的な行動のことだとすると、

何か目標を立て、挑戦(行動)をしないと、考える(頭)ことができなくなる

身体を使って行動すること(挑戦)
↑↓
頭を使って考えること

こうやって考えていくと、現段階での仮説ですが、「閉塞感や無力感こそが(社会の)真の敵だ!」となります。閉塞感や無力感で「何をやってもだめだ!」と考え、無気力になる人を、減らす。では、どうやって、減らす?私なら、、、
→日々の業務を通じて個々人の悩みを解決する?
→法教育セミナーを実施して身の回りのトラブルを予防する?
→地域コミュニティへの参加を通じて地域全体に笑顔をもたらしていく?

君ならどんな方法があると思う?